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極東国際軍事裁判資料

 

記録の精神と忘却の精神

最初から私事にわたって恐縮だが、筆者がウィスコンシン大学に滞在していた52年はじめ、たまたまキャンパスのなかで上映されたニュルンベルク軍事裁判の後日譚ともいうべきドキュメンタリ・フィルム『正義の記憶』(マルセル・オフール監督)を鑑賞する機会があった。

この映画は、この法廷で裁かれた人々と裁いた人々の立場と心情を、現在の時点から振り返ってみればどうなるかという、きわめて重い意図のもとに製作され、現存する関係者のインタビューを中心として、かつての実写場面を適当にちりばめつつ、「正義」とは何かという永遠の問題を執拗なまでに追求したものであった。

そこにみられる自己正当化と責任意識、正義の風化と多元化といった深刻な問いかけは、見終わったあと筆者の心に石のように沈殿せずにはいなかったが、ここで言いたいのは直接このことではない。筆者が最も感銘を受けたのは、こうした映画が戦後30年以上経った今日なおヨーロッパで作られているという事実であった。(ちなみに同じ監督はこのフィルムの前にフランスのレジスタンス参加者とヴィシー派の過去と現在を同じ手法で描いた『憐愍と悲哀』というドキュメンタリーをも作っている)。

こうしたしたたかな記録の精神は、おそらく「戦争は終った」という安易な合言葉で過去と絶縁しようとしているわれわれ日本人の忘却の精神とほとんど対極的な位置に立っている。現在の日本が1945年までの日本と切り離しえないとすれば、この2つの日本の連続と非連続を醒めた眼で見つめる作業を避けるわけにはゆかない筈である。こうして2つの日本の「断層」をある意味では一挙にさらけ出した極東国際軍事裁判の意義は、現在に至って減ずるどころか、逆にますます大きくなっているといってよい。

 

本資料の意義

極東国際軍事裁判は昭和21年5月、東条英機、松岡洋右以下26名の“戦争犯罪人”にたいする起訴状の朗読から始まり、2年6ヵ月に及ぶ検事側と弁護側の激しい応酬の後、昭和23年11月12日の判決をもって幕を閉じた。

たしかに「勝者による裁き」という面を免かれえなかったこの裁判が、法理的にも事実認識の点からも、いくつかの疑問を残すものであったことは否定できないが、ともかく審理の過程を通じて、わが国の普通の市民にとってそれまで全く秘密の帷に包まれていた数々のショッキングな事実が、白日のもとに暴露されていった。

たとえば軍部中堅層と民間右翼による軍事クーデター事件(3月事件、10月事件=昭和6年)、日中戦争の導火線となった「満洲事変」勃発の真相、「南京虐殺事件」(昭和12年12月)の状況、日ソ間の局地戦争たる「張鼓峰」(昭和13年7月)、「ノモンハン」(昭和14年5月~9月)両事件の経過、「日独伊三国同盟」(昭和15年9月)、「日米交渉」(昭和16年4月~11月)のさいにみられた外交と内政の緊迫した関連などがそれである。

しかし、極東裁判については関係資料がまとまった形では公刊されていないため、われわれがこの裁判の全体像をつかむことは未だにきわめて困難である。

たしかに法廷の速記録は残っており、その復刻版も出されたが(雄松堂・昭和43年)、これに収録されているのは厖大な書誌と準備資料の一部であり、裁判の進行を忠実に再現するには不充分である。いうまでもなく、当時の日本の戦争政策、あるいは軍国主義化の過程を極東国際軍事裁判が解き明かしたわけではなく、またそうできる筈もなかったが、裁判資料だけに限ってみても、ニュルンベルク裁判の記録は英文と仏文版の速記録のほか、書誌類が別にまた一括されて公刊されているのであり、このこと自体連合国の戦争責任追及の姿勢と態度におけるドイツ、日本の違いを示唆しているし(このことはおそらく「冷たい戦争」の展開と無関係ではなかったように思われる)、その後ドイツ、日本で発掘され公表された第二次世界大戦関係の原史料についても、質量共にドイツ側の作業の方が圧倒的にすぐれており、この意味でも極東国際軍事裁判に関連して始めて陽の目を見るに至った諸資料の史料的価値について、過大な期待を抱くのは禁物である。

しかし同時に、筆者の知る限り、旧軍関係の生の資料のなかには敗戦時の焼却の対象となって文字通り物理的に消えてしまったものも多数あるようであり、日本側の資料整備に絶対的な限界があることを考えれば、極東裁判関係の資料の方がニュルンベルク裁判関係のものより歴史研究にとって有用であるという逆説も成り立ちうる。

本資料にアプローチする場合、こうした事情も充分斟酌する必要があろう。

 

本資料の成立経緯

関西大学図書館が所蔵する資料は、もともと武藤章被告(昭和14年10月より同17年4月まで陸軍省軍務局長として当時の最高国策の決定機構における中枢的役割を演じた)の弁護人であった故岡本尚一氏によって保存されていたもので、同氏と生前親交のあった元法学部教授川上敬逸博士の御斡旋により本学に寄贈されたものである。

その後、『速記録』だけは邦文、英文(タイプ刷り)とも整理されたものの、その他の資料は長く図書館の一隅にうず高く積まれたままになっていたが、筆者が学生有志、図書館職員の方々の並々ならぬ協力をえて整理し、今では『極東国際軍事裁判資料目録』(関西大学附属図書館、昭和47年)により容易に索出できるようになっている。

このように、整理までにかなり時間を経過していたため、途中での散逸・汚損もあって、本資料は他の同種資料の保管場所(たとえば法務省、東京大学社会科学研究所)に現存する資料のすべてを網羅してはいない。

本学にあるのは、法廷で採用された書誌約4,000点のうちの90%、「撤回」、「延期」、「未提出」、「却下」のカテゴリーに属する約2,000点の60%であるが(もっと弁護側で用意された資料でこのカテゴリーに属するものは、ほぼ完全に残されており、欠落の多いのは検事側のそれである)、本資料の特色としては、純然たる弁護資料が約500点、これに東海地方にたいする爆撃のさい撃墜されたB29搭乗員の処刑の責任者に関する弁護資料約200点が含まれていることである。なぜB29関係のものが交じっているのかは、まだちゃんと調査したわけではないが、岡本氏御自身かその関係者がA級戦犯のほか、それ以外の「戦争犯罪人」として告発された軍人の弁護に当られたからではないかと推定される。

 

本資料の内容

本資料には、法廷に提出された当時には一大センセーションをまき起こしたが、今日では原テキストが完全に再現されている『原田(熊男)日記』や『木戸(幸一)日記』のようなもの、また『速記録』にそのまま収録されている書証類も少なくないが、たとえば地図や実物写真(たとえば1932年7月14日の日付のある在モスクワ駐在武官の参謀本部あて報告で、ソ連側牒報機関によって秘かに盗写され、ソ連検察官によって書証として法廷に提出されたものの複製)のように、そのままでは収録が不可能のもの、あるいは余りに大部のために全部は『速記録』に転載できなかったものも含まれている。

このほか、法廷技術上の考慮から提出を差し控えたり、法廷によって却下された資料で、今日からみると貴重なものも相当な数に上っている。

たとえば、日中戦争当時の中国共産党の活動に関する日本側秘密情報や日米開戦直前の米国側の対日作戦計画などである。

総じてこうした部類に属するものには、弁護側によって用意された中国共産党の抗日運動に関する報告や調査資料が多く、この事実から、裁判当時の中国における国共内戦の進展状況を睨みつつ、中国の「赤化」の歴史的「実態」をクローズアップし、中国の「喪失」を重大視していた米国の危機感に訴えることによって、いわば遡及的に日本の大陸侵略を正当化しようとする、弁護側の法廷戦術を窺い知ることができる。こうした極東裁判と冷戦状況のからみ合いは、この裁判を正しく歴史的に位置づけるためにも、もっともっと究明されなければならない点であろう。

本資料の内容を遺漏なく紹介することは、筆者の能力の到底及ばないところであるから、たまたま目にとまった興味深い資料について若干言及しておきたい。

昭和11年11月25日、日本はナチス・ドイツといわゆる「防共協定」を締結し、「枢軸」結成への第一歩をふみ出すのであるが、それから約半月後、中国では「西安事件」が突発し、これを境に抗日・民族独立の動きは滔滔たる流れとなってゆく。日本側からみて、対照的な中国政治の展開を当時、軍部はどのように観測していたのであろうか。おそらくその最も早い反応は「西安事件ニ就テ」と題する参謀本部秘密報告(12月16日付)にみられるが、そこでは「本事件ハ統一途上ニアル支那ヲシテ再ビ混乱ノ渦中ニ投センモノト謂フヲ得ヘク其挙ハ学良単独ノ計画処為ニアラスシテ楊虎城等モ加担シアルカ如ク又南京政府中ニモ相当多数ノ策謀者アル模様ニシテ・・・」と述べられ、部分的には正しいものを含みつつも、基本的には希望的観測によって貫かれていることが分かる。侵略者の発想のステレオタイプとは常におよそこういうものであろう。

満州事変は「智謀」の石原(莞爾)、「行動」の板垣(征四郎)という関東軍最高幕僚の合作にかかるものであったことは現在ではよく知られているが、本資料は昭和22年5月、石原が病臥中の酒田市で行われた出張尋問速記録がある。そのなかで石原は、滿洲事変はソ連勢力の東漸を防遏する止むをえざる措置であったとの述べ、ソ連の脅威から満洲を防衛するいかなる国際法上の権利を日本は持っていたか、というダニガン検察官の反問にたいして、「之ハ歴史ニ基イタ不文ノ東亜・極東ニ於ケル西洋各国ノヤウニ行カナイ所ノ色々ナ権利、・・・不文ノ権利デアリマス」と答え、「大東亜共栄圏」構想にまでつながる非論理を告白している。

われわれは今日、この「不文ノ権利」という発想から完全に自由であるかどうか、もう一度立ち止まって考えてみる必要はないであろうか。

武藤被告はフィリピン方面軍参謀長として軍司令官山下奉文とともに敗戦を迎えたのであるが、その関係からか、山下奉文のサインのある現地小学生用(と思われる)ノートが資料整理中に発見された(目録番号LF/D16/33)。これにはフィリピンにおける山下兵団の配置・移動、フィリピンにおける日本軍将兵の残虐行為がメモ風に書きなぐられ、筆者は簡単に将軍の「獄中覚え書」と考えてしまった。

しかし最近、防衛庁戦史室にこのノートを持参して筆跡鑑定を依頼したところ、表紙の署名はたしかに将軍のものであるが、中味の字は将軍の筆としては稚拙すぎるのではないかとの指摘があり、今のところ決め手を欠いている状態である。読者諸賢のお知恵をお借りしたい。

とにかく本資料は、現代史研究の「宝庫」の一つであることは間違いなく、関西方面にこれに匹敵する極東裁判関係の資料をまとめて保管しているところはない現在、学内学外を問わず、今後積極的に活用していただくようお願いする次第である。

                                平井 友義(大阪市立大学教授)
昭和60年4月28日発行 関西大学図書館報『籍苑』(第20号)より転載
(所属は執筆当時のもの)
 

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