吉田文庫

旧蔵者吉田伊三郎さんの生涯

吉田伊三郎氏は、明治11年(1878年)1月21日吉田伊助の長男として京都に生れた。明治36年(1903年)東京帝国大学法科大学を卒業し、外交官及び領事官試験に合格した。ついで領事官補に任ぜられ、それから、外交官補として香港に駐在し、また大使館書記官として永年、英米各国に駐在した。大正10年(1921年)大使館参事官として中国に駐在し、その間、山東問題の解決に尽力した。大正15年(1926年)特命全権公使になって、スイスに駐在し、そして、国際聯盟会議には日本代表を勤めた。昭和5年(1930年)特命全権大使に親任せられて、トルコに駐在した。同7年(1932年)1月、リットン調査団日本側参与員に任ぜられ、同年9月に至る間、同調査団と共に満洲、中国各地を視察した。翌8年(1933年)4月23日、55歳、若くして惜しくも、この世を去られる。そして、正四位勲一等に叙せられた。

なお、吉田氏は、リットン調査団に接し、次の記録をまとめて発表した。

記録:2冊

  • 中国における現状
  • 日本と満蒙との関係(仏文)

吉田文庫の内容

吉田文庫は、アジア関係及び外交関係の洋書を中心として、古くは1100年代の中頃から、1932年に至る凡そ780年間の種々な和漢洋書を収容していて、18世紀末(1799年)までの刊本が22種も含まれている。洋書約350部、和漢書100余部(約400冊)、合計2,400冊と云われているが、数の割合に優秀なものがよく集っていて、実に貴重な文庫である。

アジア関係では、中国を主とし、これに蒙古、チベットが多く、その他の地域、特にシベリアのものが、かなりあり、アジア研究に必要とする重要な文献が揃っている。ヨーロッパでは、イギリスやフランスの研究書を中心に、アメリカ、アフリカなどでも、各国の関係文献が見られる。その上に、161人の外交官や政治家などの伝記類があることは、特筆すべきである。その他、国際関係や国際法に関するものがあり、かつ、古刊本にも珍らしいものが相当にある。

幸に、「吉田文庫目録」が昭和47年 1月に編・刊されているので、これによりながら、紙面の許す範囲で、多種多彩なこの文庫の一端を紹介して見よう。

1750年より以前の古い書物

まず、古刊本から刊年順に進める。

  • 経律異相巻第二(梁)釈宝唱等撰:1148年前書

    今から約820年前の印刷であり、紹興戊辰(西暦1148年)の前書のある折本である。時は、中国では金の侵入によって宋が南遷して後20年であり、日本では近衛天皇の御宇即ち平安時代の後期、平清盛の抬頭の時期で、保元の乱の8年前であって、西洋では第2・十字軍の時代である。古いだけに古色蒼然としている。なお慎重な調査を要するが、これと同本は、天下にあまり現存しないであろう。この折本は、梁の武帝の勅を奉じて僧旻等が撰集したものを、更に宝唱等が勅命によって増補改編したもので、その内容は、仏教の経律の翻訳が盛んとなり、巻数が多くて所要の事項を検索するに不便なために、経律の要事を抄出し、幾多の項目に類別して習学の便に供したものであって、全50巻より成るが、本書はその第2巻目である。

  • ユースティーアーヌス勅法12巻註解書(ラテン文)

    ブルンネマン註:1663年
    ローマ法として重要な勅法12巻に対するブルンネマン(1608年から1672年)の註解書であり、310年前印刷のものであるが、保存がよくて虫も付いていない完全な書物である。

  • 本朝高僧伝75巻:師蛮撰32冊

    日本の各宗僧侶1,662人の伝記を10項目に分類して、記述したもの。

  • モゴール帝国全史(仏文)カトルー著:1708著者(1669年から1739年)はフランス。
  • 戦争と平和の法(ラテン文)(蘭)グロティウス著:1720年

    著者(1583から1645)はオランダの法学者、政治家である。この書は、最初1625年にパリーで出版されたが、その後、今日まで、ラテン語版が約50種と仏、独、英、西訳が約30種の多数の版があり、日本訳もあって、有名な書物である。本書は、バルベイラクの註解が附けられている。

  • 地理要略書(仏文)(独)ヒュブナー著仏訳版2冊:1735年

    ドイツの有名な地理学者(1668年から1731年)の著の仏訳である。地図が豊富に挿入されている。

  • 中国全史(英文)(仏)デュ・アルド著英訳版4冊:1736年

    原著者(1674年から1743年)は、フランスのヤソ会士であって自らは一度も中国の土を踏まなかったが、中国現地の宣教師から送附の書簡などによって著作したものである。内容は地理、歴史、年代、政治、自然にも及んだ大著である。この書物はその英訳であって、仏原文出版の翌年に出たもので、各巻毎に異った人への訳者ブルークスの献辞が付いているが、第1巻は当時の英国皇太子宛になっている。なお、この著作は英訳3版を重ねた他に、独訳、露訳も出来ていて、よく読まれた様である。

  • 中国、中華韃靼及びチベット新地図(仏文)(仏)アンヴィル著:1737年

    著者(1699年から1782年)は、フランスの地理学者で、前項のデュ・アルド「中国地誌」4冊(1735年)の挿図として製図したもの。

熱心なアジア研究家4人の書物

次に、アジアに就いての研究家、探険家、歴史家などの主要な4人の著作を、年代順に紹介する。

リヒトホーフェン(1833年から1905年)ドイツの地理学者

  • 中国誌(独文)5冊:1877年から1911年
    初めて中国を科学的に調査研究をなしたリヒトホーフェンの名高い調査報告書であり、多くの図版が挿入されている。第1巻は緒論、第2巻は華北、第3巻は華南、第4巻は各専門家の古生物論文集、第 5巻は古生物関係であって第1、2、4巻は生前に出版されたが、第3、5巻は没後の刊行であり、クオート判の大冊である。この報告によって山東省の豊富な資源が判明し、ドイツが膠州湾を租借して山東経営に乗り出す端緒となったことは周知の通りである。このような名著を2組も所蔵している。
  • 書簡集(1870年から1872年)(英文)1冊:1872年
  • 中国日記(独文)2冊:1907年

プルジェヴァリスキ(1839年から1888年)ロシアの探険家

  • 蒙古とツングート人の国(露文)第1巻:1875年
    右の露原版の外に、仏訳(1880年)と、独訳(1881年)も所蔵されている。
  • クルジャからロブ・ノールへの旅日記
    露原版はないが、独訳(1878年)と英訳(1879年)とを所蔵している。
  • チベットと黄河上流の旅行記(1879年から1880年における)
    露原版はないが、独訳(1888年)を所蔵している。
  • 中央アジア第4次旅行記(露文):1888年

スタイン(1862年から1943年)イギリスの考古学者、探険家

  • 中央アジア探険報告(英文)4冊:1928年
    スタインがインド政府の命によって1913年から1916年の間に行った中央アジア探険踏査の有名な報告書である。本文3冊、図録1冊、地図1冊から成り、フォリオ判の大冊である。
  • 中央アジア及び西部中国探険記(荒廃中国の廃墟)
    (英文)2冊:1912年
  • コータンの砂で埋れた荒廃(英文)2冊
  • 東部トルキスタンと甘粛の地図の記録(英文)2冊(本文1冊、地図1冊):1923年
  • アレキサンダーのインドス河への足跡(英文):1929年

ヘディン (1865年から1952年)スェーデンの地理学者

  • アジアを通して(英文)2冊:1898年
  • 中央アジアとチベット-ラサの聖都に向って(英文)2冊:1903年
  • アジアの荒廃との闘争の3年間(仏訳):1899年
  • チベットにおける冒険(英文):1904年
  • 北京からモスクワへ(独文):1925年
    右の外に、種々様々な探険記、調査記などが多数ある。

美しい書物と数が少ない書物

次に少し違ったものとして、豪華な美本が2種ある。両者共にクオート判である。

  • ディズレーリ(ビーコンスフィールド伯)と彼の時代(英文)エワルド著2冊:1882年
    総黒革で金色の装飾に、小口三方が金で、美事である。
  • アジア・ロシア大観(露文)1組4冊:1914年
    濃緑色の背革と緑色の平クロースで、写真や図版、地図が多数ある。第1、2巻は本文で多数が分担執筆し、第 3巻は索引、別冊地図は、たて64センチという超大型本。

最後に、古くはなくて、しかも異色のある稀少本一点を特記せねばならない。

  • 御製盛京賦(清)高宗撰 南満洲鉄道株式会社刊:帙入1932年
    西暦1743年、清の乾隆帝は満洲巡遊の際に、己のが皇祖発祥地である奉天及びその周辺を礼讃歌した一大詩篇を編成した。そしてそれを漢字の篆体32種と満洲字の篆体32種と合計64種の文字を以って印刻せしめた。在華フランス宣教師アミオはこれを仏訳し、詳細な註解を付けて、1770年パリーで発行したが、それによって、フランス文豪ヴォルテールは乾隆帝と相識るに至ったのである。昭和7年(1932年)、満鉄がリットン卿満洲調査団に対し、記念として特に64種の各第1ページを復製し、これに英文の解説(衛藤利夫解説)を付け、限定80冊印刷した。そして、それを関係者のみに配布したのであるから、極めて稀少なものである。その中の第17号が吉田伊三郎に当ったわけで、本書が即ちそれである。

天野 敬太郎(元図書館図書課長)

昭和60年4月28日発行:関西大学図書館報『籍苑』(第20号)より転載
(所属は執筆当時のもの)