鬼洞文庫
昭和の大阪の蒐書家として、忘れてはならない一人に出口神暁氏がいる。中野三敏氏編『近代蔵書印譜 二編』は「郷土史家。大阪の郷土資料収集において第一人者を以て任じた」と記す。遺稿集『名所古跡を訪ねて』(昭和六十年十月称名寺発行)のプロフィールの記述と郷土史家玉谷哲氏のお話を総合すると、明治四十年五月三十日、岸和田市流木町浄土真宗称名寺の長男として出生し、旧制平安中学卒業後、土生村役場・岸和田市役所に勤務、昭和二十二年、称名寺住職を継ぎ、翌年、岸和田市農業共済組合を設立した。
一方、若い頃に役所で、『泉南織布発達史』などの著書のある郷土史家相沢正彦氏と邂逅し、これを契機として郷土資料の蒐集・研究に傾倒したという。昭和二十四年には和泉文化研究会を設立し、同年八月、その機関誌として『流木』(のち『和泉志』と改題)を創刊した。その他に「鬼洞叢書」や「和泉史料叢書」として多数の編書も出刊している。岸和田文化財保護専門委員長、財団法人大阪府文化財センター評議員も歴任した。
昭和六十年三月九日没。享年七十七歳。懇意であった古書肆中尾松泉堂中尾堅一郎氏のお話によれば、なかなか気難しいところのある人だが、それは蒐集に対する執念の表れであったという。古書肆や骨董屋に足繁く通い、古書即売会には必ず初日の開場と同時に駆け込んだそうで、その気迫は鬼気迫る程であったという。博識で目が利く、コレクターとして非常に優秀な人だったとは中尾氏の回顧談である。鬼洞文庫とはこの出口氏が精魂を傾けて蒐集して築き上げた個人文庫である(「鬼洞」を号する謂れについて出口氏自ら記述するところはないようだが、仏語に「鬼窟裏」なる語がある。本来、悪鬼の住む洞穴の意であるが、資料蒐集に執着する自らを鬼に見立てたものかと推察する)。
そしてその大部分が関西大学図書館に安住の地を得ることとなった(すべてではない点は明記しておく)。本稿では、関西大学所蔵の鬼洞文庫のうち一定のまとまりのある部分につき略述することとするが、その選択は稿者の恣意によることをお断りする。
俄・茶番の写本・稿本がある。その俄資料については、かつて中村幸彦氏が「一荷堂山水と称した書賈河内屋清七即ち古書肆鹿田松雲堂家に伝わったものではないかと思われる」(同氏著述集第十巻271頁)と判断されたものである。幕末期の大坂における俄流行の実相が窺える好資料であり、珍しいものでもあるので略述する。
倉椀家淀川作『古今二和歌集』(写本・大本二冊)が蔵されるが、『日本庶民文化史料集成』第八巻に抄録され、中村幸彦氏の解題も備わる。『新和歌集』は大本一冊。天保七年永楽斎山水写の俄台本集。淀川・村上・本虎・堂島渓丸の作者名を記す。
芝居の拵えで役を定めたやや長編の俄を十五番集めたもの。『風流独俄宝蔵選集』(登録書名)は横本一冊。巻頭の識語には、大極堂が『風流独俄宝蔵百集』から撰定した旨の記述があり、本書が抄記であることが分かる。内容は、「宝蔵へ忍び込み奪取たる・・・・・・」の様式の独り俄集であるが、それぞれ先ず題があり、次にこじつけるものの絵(彩色肉筆)を配し、更に本文があり、末尾に作者名(樽丸・石村・今丸・駒津・あら玉・山水・つた)を朱書きする。その本文の首尾には点印らしき押印がある。同様の物(ただし挿絵はなし)に、『独俄宝蔵集』(登録書名。半紙本三巻三冊)。上巻は曲直舎竹成撰、中巻は桜亭似蝶撰、下巻は毛馬兄撰で、同じく宝蔵の俄選集で、やはり点印が捺印される。大極堂のものと同じ俄が選定されていることもあり、いずれも素材源は同一と考えられる。
雑俳や狂歌などと同様に、俄は募集され、選者に批判され、高点の作を集めて清書本にしていたことがこれらから推察できる。俄の選集が編まれる具体的な過程を窺える恰好の資料である。『浪華俄』(登録書名。半紙本五冊・写年不記・全て同一人の写になる)は芝居の拵えで役を定めたやや長編の俄台本集だが、そのうちには、役割書きが備わる台本もあり、これにより当時の俄師の名が拾える点が注意される。具体的には、南玉・新玉・定川・西蝶・音琴・本虎・三貴・九仙・本春・三朝・南光・道楽・新蝶・金玉・三七丸・福丸・広丸・梅勢・市丸の名が見え、職業的俄師による興行の一座を台本と共に明らかにし得るのである。
上演用台本と思われる写本などを十五冊合綴した『美双不二』(登録書名)は共表紙仮綴半紙本一冊。その巻頭の『美双不二』は芦笛・山門・山水合作を明示する。役割にこの三人以外に北水・お福の名も見える。巳の神無月と表紙に記される。二冊目『福の神宝の山代』(酉の初春)は一花堂山水作で役割に中島お福・船乗常右衛門・中島清七・鹿田山水・庄司平蔵・淀川吉兵衛・林方三郎・淀川庄兵衛の人名が拾え、またその他に一花堂山水(鹿田静七)の所蔵にかかるものかと思われるが、山水周辺の人物が窺える好資料である。
登録書名『東都風景物口上茶番』は共表紙仮綴じの写本。半紙本十冊合綴一冊。瓦隠斎東笠述の口上茶番で、毎年正月十三日の吉例茶番詠草のうち、安政二年・四年・六年・七年・万延二年・文久三年・元治二年は年記を明示し、更に年記不明の三冊をも綴じ合わせたもの。それぞれの年(冊)で通題があり、さらに各題に応じて趣向し、景物を差し出し、それぞれ口上する。東笠には『俄選集』(登録書名)なる写本(半紙本二冊)もある。
安政四年の自序中には、北の赤壁連、南の早通連中、中程の懐遊社と因を結んで、そこでなされた茶番を書き記したと記す。本書では、東湖・山水・園子・眼鏡・柳子・栢園など二十数名の当時の大坂の茶番作者を見ることができる。ま多別に和合連と称する結社もあり、その連中の編と記される『今様茶番硝子鏡』(文久三年三五園桂子序、図1)は、なかなかの逸品である。和合連ほかの狂言茶番の選集だが、丁寧に清書された本文に北粋亭芳豊の見事な彩色肉筆画を挿絵とするのである。
芳豊は役者絵・風景画等の版画や俄の挿絵などにかなりの作例がある大坂の浮世絵師である。その肉筆浮世絵はさすがに迫力があり、引き込まれる。芳豊は他に俄の稿本にも肉筆の挿絵を寄せる。巻末に一花堂と記される『仁和嘉仙』(下巻のみ半紙本一冊、稿本)である。内容は役を定めたやや長い俄台本集で、俄の作者としては村上と堂嶋渓丸を明記するが他は記載されない。その挿絵には芳豊の落款が備わり、略画ながら彩色の肉筆で滑稽味があり、これもまた魅力的である。これらの資料群は、大坂の俄・茶番の研究ばかりでなく上方浮世絵研究のためにも重要なものである。
松川半山はいうまでもなく幕末明治の大坂では大きな名前である。鬼洞文庫には半山の稿本・版下本がかなりある。『女年中用文章』『論示画帖』『瀬戸物往来版下』『松川半山草稿本』については、既に略述したことがある(『国語と国文学』856平成七年四月)。他に『観音経和談抄録図会』(稿本・下巻のみ一冊)も表紙に「松川半山稿」と墨書されるが、その版本には菱川清春画を明示する。稿本はごく粗い下絵のため画者を判断できない。
「松川半山稿」との墨書は、どうやら極書などによくある筆法といえよう。逆にいえば、半山の人気の程が知れる事象である。なお、鬼洞文庫には、『隆興雑書稿本』『節用集稿本』との登録書名の稿本が蔵され、明示はしないが画風は半山風である。出口氏は大坂の半山という視点からこれらの稿本類を集められたものと思われるが、結果的には半山ばかりでなく、挿絵や版本一般の制作の過程を窺える貴重な資料群となった。
大坂軍記ものは書名のみを挙げると、『御撰大坂記』『大坂冬陣日記』『大坂日記』『秀吉日記』『元和先鋒録』『大坂軍記』『大坂口実』『大坂陳集物』『難波戦記』『若江合戦』『大坂表五月七日合戦覚』『大坂冬御陣覚書』『大坂夏御陣覚書』『厭蝕太平記』を所蔵する。
安永二年序『蛇の目講道中記』などの大坂の各講社伊勢講資料、浪花講などの旅宿組合の定宿付冊子が一山ある。これらは近世から明治初期にいたる大坂における伊勢参宮や交通史の研究の好資料になるものと思える。ひとつひとつは片々たる小冊ながら、これだけの量を収集することは並大抵ではない。蒐集の鬼を見る思いがする。
遊女名寄せは遊女の登場する小説類の注釈には必要なものであろう。吉原細見は、八木敬一氏・丹羽謙治編『吉原細見年表』などその研究も進んでいるが、大坂の新町細見の研究となると寡聞にして知らない。ところが、その新町細見『つましるし』がかなりまとまっているのである。
出口氏はなかなかの粋法師といえようか。刊年のみをしるしておくと、寛政十年版・文化二年版・文政三年版・十四年版・天保七年版・十年版・十一年版・十四年版・弘化二年版・五年版・万延元年版・刊年不明版である。
大坂や泉州に関する一枚摺も広範に集められたようで、種々の見立て番付など多種多様であり、また相当な量でもある。それらの中で、大坂の商店の商品切手と引札がそれぞれ一群をなすが、引札は近世のものは少なく、ほとんどは明治の商店の広告である。
ただし、二代目長谷川貞信の描くものが数十点あり、さすがに貞信の手にかかるとコマーシャルアートといえども見事なものである。これらは商業史の資料としてばかりでなく、明治の浮世絵研究にとっても恰好の資料となろう。
承応二年九月二十五日興行、「賦御何」連歌百韻の巻物一巻がある。発句「世を照す神のめくみや秋の月 仙甫」。連中は仙甫、正音、尚政、昌句、以春、種定、宗因、西順、等二、玖也、盛次、友貞。宗因が出座するもので注目されるが、尾崎千佳氏「西山宗因年譜稿」(『ビブリア』111)にも未収のようである。
その他、俳諧・雑俳や狂歌本がかなりあるが、これらは泉州を中心に大坂・摂津の人物が撰・編や興行などに関与しているもの、和泉の作者の入集しているものを朱として集められたようである。
名家筆跡、和歌・狂歌の短冊・懐紙や書翰などの貼り交ぜ帳(折本仕立)『寸金百衲衣』(図2)は、大坂常番を勤めた越前敦賀藩主酒井忠■(エ)家中の中邑正定家で拵えられたものかと見受けられる。蜀山人など江戸の狂歌短冊もあるが、栗柯亭門など大坂の狂歌師が多い。
各貼込の脇に詠者に関する伝が注記されるが、同時代ならではの情報が盛られており、これらの人名注記は使えるものがあろう。好華堂野亭自筆の「蝶の辞」なる凝った名文も張り込まれる。明治大阪の珍書持ちとして知られる濱和助をして「珍蔵」と記さしめる逸品である。
以上、文庫の際だったところを述べてきたが、ひとつひとつは優品揃いというわけではない。しかし、小粒の珠であっても数が集まれば宝玉にも匹敵する光輝を放つようになる。鬼洞文庫はまさにそのようなコレクションである。片々たる小冊も、出口神暁という人によって蒐められると新たな価値を生み出し、和泉・大坂の郷土史、大坂文化の宝庫として輝くのである。個人文庫とはこのように蒐集者の価値観を反映し、その生涯を凝縮したものである。
そして、氏の生涯の凝縮であるコレクションを、今我々一時に見ることができる。そのありがたさに思いをいたさねばならない。雑誌を主宰しながら自らを語ることの少なかった氏は、発刊の辞にかえて村田春海の『織錦舎随筆』から「書ををしむならはし」の章を引いている。「たゞ書は私の物ならずと心得おきて、公にひろく伝へて、世にたえせざらん事をおもふべき事にこそ」のくだりに、自らの思いを託されたのだろう。その遺志を継ぎ、これらの資料を利用して活かすことが今後の課題である。
山本 卓(関西大学文学部教授)
2001年5月29日発刊:『文学』第3巻第2号、岩波書店掲載論文「鬼洞文庫」より転載