本資料には、法廷に提出された当時には一大センセーションをまき起こしたが、今日では原テキストが完全に再現されている『原田(熊男)日記』や『木戸(幸一)日記』のようなもの、また『速記録』にそのまま収録されている書証類も少なくないが、たとえば地図や実物写真(たとえば1932年7月14日の日付のある在モスクワ駐在武官の参謀本部あて報告で、ソ連側牒報機関によって秘かに盗写され、ソ連検察官によって書証として法廷に提出されたものの複製)のように、そのままでは収録が不可能のもの、あるいは余りに大部のために全部は『速記録』に転載できなかったものも含まれている。
このほか、法廷技術上の考慮から提出を差し控えたり、法廷によって却下された資料で、今日からみると貴重なものも相当な数に上っている。
たとえば、日中戦争当時の中国共産党の活動に関する日本側秘密情報や日米開戦直前の米国側の対日作戦計画などである。
総じてこうした部類に属するものには、弁護側によって用意された中国共産党の抗日運動に関する報告や調査資料が多く、この事実から、裁判当時の中国における国共内戦の進展状況を睨みつつ、中国の「赤化」の歴史的「実態」をクローズアップし、中国の「喪失」を重大視していた米国の危機感に訴えることによって、いわば遡及的に日本の大陸侵略を正当化しようとする、弁護側の法廷戦術を窺い知ることができる。こうした極東裁判と冷戦状況のからみ合いは、この裁判を正しく歴史的に位置づけるためにも、もっともっと究明されなければならない点であろう。
本資料の内容を遺漏なく紹介することは、筆者の能力の到底及ばないところであるから、たまたま目にとまった興味深い資料について若干言及しておきたい。
昭和11年11月25日、日本はナチス・ドイツといわゆる「防共協定」を締結し、「枢軸」結成への第一歩をふみ出すのであるが、それから約半月後、中国では「西安事件」が突発し、これを境に抗日・民族独立の動きは滔滔たる流れとなってゆく。日本側からみて、対照的な中国政治の展開を当時、軍部はどのように観測していたのであろうか。おそらくその最も早い反応は「西安事件ニ就テ」と題する参謀本部秘密報告(12月16日付)にみられるが、そこでは「本事件ハ統一途上ニアル支那ヲシテ再ビ混乱ノ渦中ニ投センモノト謂フヲ得ヘク其挙ハ学良単独ノ計画処為ニアラスシテ楊虎城等モ加担シアルカ如ク又南京政府中ニモ相当多数ノ策謀者アル模様ニシテ・・・」と述べられ、部分的には正しいものを含みつつも、基本的には希望的観測によって貫かれていることが分かる。侵略者の発想のステレオタイプとは常におよそこういうものであろう。
満州事変は「智謀」の石原(莞爾)、「行動」の板垣(征四郎)という関東軍最高幕僚の合作にかかるものであったことは現在ではよく知られているが、本資料は昭和22年5月、石原が病臥中の酒田市で行われた出張尋問速記録がある。そのなかで石原は、滿洲事変はソ連勢力の東漸を防遏する止むをえざる措置であったとの述べ、ソ連の脅威から満洲を防衛するいかなる国際法上の権利を日本は持っていたか、というダニガン検察官の反問にたいして、「之ハ歴史ニ基イタ不文ノ東亜・極東ニ於ケル西洋各国ノヤウニ行カナイ所ノ色々ナ権利、・・・不文ノ権利デアリマス」と答え、「大東亜共栄圏」構想にまでつながる非論理を告白している。
われわれは今日、この「不文ノ権利」という発想から完全に自由であるかどうか、もう一度立ち止まって考えてみる必要はないであろうか。
武藤被告はフィリピン方面軍参謀長として軍司令官山下奉文とともに敗戦を迎えたのであるが、その関係からか、山下奉文のサインのある現地小学生用(と思われる)ノートが資料整理中に発見された(目録番号LF/D16/33)。これにはフィリピンにおける山下兵団の配置・移動、フィリピンにおける日本軍将兵の残虐行為がメモ風に書きなぐられ、筆者は簡単に将軍の「獄中覚え書」と考えてしまった。
しかし最近、防衛庁戦史室にこのノートを持参して筆跡鑑定を依頼したところ、表紙の署名はたしかに将軍のものであるが、中味の字は将軍の筆としては稚拙すぎるのではないかとの指摘があり、今のところ決め手を欠いている状態である。読者諸賢のお知恵をお借りしたい。
とにかく本資料は、現代史研究の「宝庫」の一つであることは間違いなく、関西方面にこれに匹敵する極東裁判関係の資料をまとめて保管しているところはない現在、学内学外を問わず、今後積極的に活用していただくようお願いする次第である。
平井 友義(大阪市立大学教授)
昭和60年4月28日発行 関西大学図書館報『籍苑』(第20号)より転載
(所属は執筆当時のもの)