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生田文庫

 

生田耕一氏

生田文庫は故生田耕一氏の旧蔵にかかる。生田氏の父君秀氏は吹田の大日本ビールの創立者で生田氏も重役として関係があった。

生田氏はもともと趣味の人で、はやく鼓筒の聚集と鑑定では一家を成している。中年から万葉集の研究に打ち込んだが、京都大学の澤瀉久孝博士の指導を受けていたようで、その推挙によって若かりし日の石井庄司氏なども一時氏の助手を勤めたこともあったと聞く。

生田氏の研究業績の主たるものは、いわゆる難語難訓に関する研究で、そのすべては晩年に出版を見た万葉集難語難訓攷に収められているが、「山城の多賀の槻群」の訓の発掘のほかは案外とるべきものがない。基礎的知識を欠いたことと、難語難訓という魅力の泥沼にいきなり足を入れたことにあるのではないだろうか。

生田氏の業績は、むしろ片々たる小篇ではあるが、古事記の「ミホト」の研究や数々の索引の作製にあるというべきであろう。本文庫に現蔵する万葉釈文索引碩鼠漫筆の部など未刊・既刊を通じての7部は今日でも十分利用価値を持っている。

生田氏は不幸にして昭和8年、突然なくなった。その蔵書は嗣子耕蔵氏の母校関西学院大学に寄贈されたのであるが、万葉関係の書物1,600余部は手放すにしのびなかったのであろうか、その後も同家に保管されていた。

しかるに終戦後、同じ吹田にある大学という縁で、挙げて本学に寄贈せられることとなったのであるが、本学にとってこれほどの喜びはない。嗣子耕蔵氏はもとより、斡旋の労を取られた故八鳥治一教授や、金子又兵衛元教授に深謝すべきであろう。

 

生田文庫の特色

生田文庫には、正直なところ西念寺本の類聚古集を除いて、いわゆる稀覯書というほどのものはない。この西念寺本については、先年京都大学の渡辺実博士が詳しい報告をしておられるので、ここでは繰り返すことを省略する。

いわゆる稀覯書ではないが、基礎的な研究を網羅している。これが一口にいった生田文庫の特色であろう。そこに自らが研究者であった生田氏の聚書の面目があるといえようか。

もとより生田氏に稀覯書を愛する気持がなかったわけでない。そのことは尼崎本万葉集巻十六を当時としてはかなり高価で求めた上、京都大学に寄付している事実を見ても明らかである。稀覯書は一人の私蔵すべきでないという信念によるもので、いたずらに稀覯書・珍書を集めて誇示するそこらの金持と趣を異にするものがあろう。

生田氏の蔵書はいつでも活用せられる態勢におかれていた。複製本その他に国歌大観の番号がつけられていることや、数多くの索引が作られていることがそのあらわれといえようか。

この複製本に番号がつけられていることで、笑えぬ話がある。それは本学の木下正俊教授が自らの著書に元暦校本万葉集の写真を挿入するにあたって生田本の複製本を利用せられたところ、本来ない番号まで写っていることが後になってわかって大騒ぎとなったことである。

 

山田以文書入本万葉集傍注

稀覯書とはいえないまでも、名家の書入本は二、三ある。その書き入れ中、興味のあるものを紹介する。

その一つは山田以文の書入れのある万葉傍注であろう。以文は京都の人、万葉学者として知られた橋本経亮の後輩で、その遺志をついで、傍注の板木をそのまま利用して傍注の部分を削って上欄に校異を埋木した校異本万葉集を出版した人である。

生田本傍注の以文の書入れに元暦校本や大須本による校異があり、校異本の頭書にも合じ校異のあることや、傍注の第二巻冒頭の題詞「盤姫皇后・・・」に朱の校合があって「磐」と訂正、かつ「二字元(暦校本)本ナシ」と校異があるところ、校異本の頭注にも「(元)暦(校)本無磐姫」とあることと共に、両者の密接な関係を示すものといえようか。

傍注本の数ある書入れの中で今一つ注補すべきは、巻一の初めに貼られている紙片に見える次の一文である。

橘経亮云、寛政十年三月廿日富山所蔵古本万葉当時(只今の意)摂州俵屋某所蔵懇望展翫、
第一第四第七三巻行成公任俊頼ノ筆也第一巻春過而ノ歌迄ニテ以下闕タリスベテ長
歌ノ仮名ナシ短歌ハ別行ニヒラ仮名ニテ書ケリ短歌モ
ヨミ解ザルハ仮名ナシ後人ノ加
筆トミエテ朱或雌黄ニテ片仮名付ノアリシモミエタリ

上に見える橘経亮は、いうまでもなく、橋本経亮のことである。経亮が荒木田久老と同道して神戸の廻船問屋俵屋に元暦校本万葉集を見にでかけたことは、元暦校本万葉集の伝来史上有名な事実といえようか。通説ではその時期は寛政11年3月となっていて上記以外の聞書とは1年の相連がある。性質上どちらが正しいかは明らかでないが、日付の20日だけは新たに知られた事実であろう。

 

服部敏夏書入本古万葉集

今一つは服部敏夏の書入れのある古万葉集である。敏夏は以文と同じく京都の人、俗称を中川屋五郎右衛門といって本居門下の歌人であった。

その丹念な書入れもさることながら、興味のあるのは巻二の末尾に記されている次のような記事である。

文化十三年丙子二月三日夜会読清訓
            於中川之家
             会読一座
               本居大平
               長谷川菅雄
               城戸千楯
               予

1行目終りの「清訓」は文字通り教示の意であろうか。案外施訓の誤りかとも思うが明らかでない。末尾に予とあるのはもちろん服部敏夏、本居大平は宣長の養子で紀州藩に仕えた人。長谷川菅雄は和泉の人で宣長の門人。城戸千楯は京都の人でやはり宣長の門人、紙魚屋と号した人である。

これらお互い遠く離れている人たちが、敏夏の中川の家に会合して万葉集を輪読したということだけでも、わたしたちの襟を正させるものがあるのではないだろうか。

こう考えてみると稀覯書のないと思われた生田文庫にも捨て難いものがあろう。腰を落付けて見れば、まだまだ収穫の期待できる生田文庫である。ことに頴原文庫と1冊になった目録ができていることは有り難い。

吉永 登(名誉教授) 
昭和60年4月28日発行 関西大学図書館報『籍苑』(第20号)より転載
(所属は執筆当時のもの)
 

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