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岩崎美隆文庫

 

関西大学図書館所蔵の岩崎美隆文庫については、図書館運営課長(当時)の森川彰氏が、国文学を主とするすぐれた紹介をなされているので、私は律令学を中心として本文庫の紹介をなしたいと思う。

岩崎美隆(文化元年-弘化4年)は、河内国河内郡花園村の庄屋の職にありながら、身命をとして国学の研究に没入した人であった。

同文庫に収められた美隆の研究覚書、歌集、考証、筆写等の自筆本は、おびただしい量にのぼるものであり、またそれぞれの研究が、当時の学問において最高の水準を示すのみならず、現代においても、なお意義をもつものが多いことは、すでに多くの先学が説かれたところである。このような貴重な蔵書が、本学に存するにもかかわらず、一般には余り知られていない。同文庫の完全な目録の作成、研究覚書の整理、美隆の伝えた善本の紹介等がなされたならば(それは多大の労力を要することであるけれども)、学界に対し不朽の貢献となるであろうことを確信する。

律令学関係の写本の一部を次に示す。

契冲阿闍梨校合本令義解
本居大人校合本令集解(本居大平の校合文)
弘仁式
類聚三代格
儀式
令御抄
壺井義智稿本位職二令解
衣服令打聞
職原抄中家口決秘記
壺井義智稿本「職原抄弁疑私考」

この他に、美隆の厖大な研究覚書「藤門雑記」百巻中の「官職行事法令」篇がある。

令義解令集解の考証は、現代においてもまだはなはだ未完成な状況にある。国史大系本令義解令集解に多くの問題が存することは、周知の事実である。令義解令集解は、古代法・古代の法解釈学の基本史料であるが、その原本の考証という分野の研究が、はなはだ未開拓なのである。今一度、近世の学者たちの、地味な努力の結実をふりかえるべき時期がきているといってよい。

契冲阿闍梨校合本令義解は、慶安3年蓬生巷林鶴の刊行した所謂京本に、朱筆で校合・訓読を施したものである。各冊の後表紙には『不可出函底契冲阿闍梨校合本』と朱記されている。その最終巻の識語は、つぎのようである。

       田豆舎蔵本奥書云
右以四天王寺明静院秘蔵契冲阿闍梨校本令校写一校了
一本奥書云安永甲午三年春二月三日拠羽倉蘭沼先生蔵書校正了
右一巻
文政七申十一月廿日校合畢
同九年戌十月十日頭書畢
同十一子年十月廿日以田豆舎大人蔵本校合了
天保九年戌八月以荷田在満校本再校了

かかる貴重な校合本が、美隆に伝えられているのは、田豆舎すなわち村田春門と、美隆の深き師弟の交情を示すものであって、『不可出函』というのは、師の学恩を大切にするという意味なのである。

この校合本が、明静院に伝えられた契冲の遺書を伝えるものであることは、明白である。ただし、右の奥書によっても理解しうるように、この校合本は、契冲の校合のみならず、荷田在満本その他、当時の最高の水準の校合を伝え集大成しているから、契冲そのものの校合を判別することは、不可能である。この点は、私が調査した土佐山内文庫の谷垣守校合本(令義解)と異なっている。

谷垣守校合本は、荷田在満の校合を、できるかぎり正確忠実に伝えることを目的としている。

美隆の校合本は、当時の、すぐれた校合を、能うかぎり多く伝えようとしたのである。両者の校合の方法に、基本的な相違があるのである。両者の、それぞれに深い特色がある。軽々しく高下をあげつらうことは許されない。

谷垣守の方法において、学統は純粋に伝えられる。美隆の方法において、令義解の考証は、最も正確となる。すなわち、美隆の方法においては、学統は、それがいかに師の深き学恩を示すものであり、貴重なものであっても、令義解考証のための手段にすぎないのである。美隆の方法にはこのような強固な自立的精神がうかがわれるが、それは、学問の普遍的意味に対する確信に導かれている。彼自身の研究が、厖大なノートの形でのこされ未完成であるのに対し、善本の筆写に関しては、完璧なものに磨き上げているという問題をとくカギが、上述したところにあると思う。彼は、多くの国学者が歩んだ神道の道よりも、むしろ古代国家の基本組織の解明--律令学に情熱を注いだと推定されるが、それは、明治維新への思想的関心と決して無縁ではあるまい。

美隆が、彼の蔵書の整備に苦心したことは、彼自身の蔵書目録「杠園書目録」により明かであるが、彼がなくなる前年に記した奥書は、次のようである。

惣計八百二拾七部
 美隆写本之部二百八十二部
合千百九部
冊数
   四千百四拾七冊
弘化三丙午年七月
  かくあらたむるものは
       喜里川里   中西多豆伎
       八尾神主    友田義延
       花園       荒木美蔭

美隆自身の手写本282部は、彼の烈しい情熱を示唆するといってよいのではないか。

契冲阿闍梨校合本令義解には、かかる考証のほかに、頭注として、美隆が多くの解釈を記している。その一端を紹介するならば、

『職員令ノ事シヨクト云又シキト云説アリ事ヲ行フヲシヨクト云シカレハシヨクト云ベシ中山内大臣令ノコトヲ書翰ニ書玉ヘル貴嶺問答ニモシヨクイン令トカキ玉ヘル』

『美隆按太政大臣職掌有無事及太政大臣□□□当何職事三代実録巻四十五二十一可考以文長略之』

『弾正有非違台相共糺之弾正式云凡尹若有犯者弼以下忠以上共判奏弾正当理者下座退其弾正之内有非違者各相弾之』

『漢書註ニ舎人ハ親近左右之通称也後ニ為官○舎人ト云事古クヨリ見ユ大舎人ト云称ハ雄略記ニ始テ見ユ』

『物部ハモト一部ノ武士ニテ軍ノコトナトニムネトアツカリシ者ト見ユルヲ後ニハタヽ刑人ノ事ヲ掌リテ賤職トナレルニテハヤク雄略記ナトニモ遣物部兵士三十人殺前津屋并族七十人云也又付物部使於野ナト見エタリ類聚国史天長八年三月囚獄司物部定額四十人依名負氏入色人□取他氏云也□ル名負氏トハ先祖ヨリ世々物部ナル種ノ人ヲ云也』

等々とあり、興味深いものがある。

写本類聚三代格巻第十二の奥書は、つぎのようである。

類聚三代格第一   同第二闕
同    第三     同第四闕
同    第五     同第六闕
同    第七     同第八
同    第九闕    同第十闕
同    第十一闕  同第十二
  合十二巻
     内六冊闕
   残六冊
  右六冊写

宝暦十二未年秋八月 日 風律
天明二寅年 二月日風律翁之本借而写
                     真蔵

右6冊類聚三代格は、考証とともに部分的に詳細な訓読を附している。

衣服令打聞は、長瀬真幸の稿本を、文政8年10月16日夜岩崎美隆が手写し終えたものである。長瀬真幸が、この打聞をしるしたのは、寛政6年9月3日である。真幸の奥書によって明白であるように、この打聞は、寛政5年の冬江戸にて田安宗武卿の臣長野靱負源清良の説を記したものであるが、清良の説は、宗武の学説を伝えている。

長野靱負源清良は、藤原孝綽とともに、宗武の稿本「服飾管見」の凡例を記している人である。その凡例の中に、「年来考させ給ふといへども御みづからしるさせ給ふ事なく唯口づからおしへさせ給ふを御傍に待る人々をしてかゝしめられて所也且あまた年の事に侍れは移り行て其人も独りには侍らず」とあるによって知られるように、宗武の有職故実に関する識見を、その傍にあって記録した幾人かの側近の人々が存在したと考えられるが、清良は、そのような人々の中の中心的な人物であったと推定される。

周知のように、田安宗武は、近世国学の育ての親ともいうべき役割を果したのであり、荷田在満、賀茂真淵は、いずれも田安家の「和学御用」を勤めた人たちであった。この打聞は、衣服令に関する宗武の説を伝えているという点で貴重な史料であるといわなければならない。衣服令研究は、有職学の最も基礎となる部門である。それが極めて重要な意義を有していることは、このたびの高松塚古墳壁画の考証において、衣服令を看過した論が、いかに大きな誤りを犯しているかということを知ることによって、明白であろう。

この衣服令に関するまとまった研究は、現代においても猪熊兼繁博士のものを除いては皆無に近い。衣服令そのものの研究に関する善本に着目した美隆の洞察に対し、私は深い敬意をいだかざるをえないのである。

私は、岩崎美隆の文庫に接するたびに、美隆の清く豊かな学問への心情を思い湧き上がる感動をおさえることができないのである。

                                 石尾 芳久(法学部教授)
昭和60年4月28日発行 関西大学図書館報『籍苑』(第20号)より転載
(所属は執筆当時のもの)
 

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