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玄武洞文庫

 

唐本仕立て、活版55丁からなる1冊の目録があり、書名を『家蔵孝経類簡名目録稿』という。編者は田結荘金治氏、昭和12年大阪の玄武洞文庫から出版されたものである。収録の孝経諸本はすべて483部、570冊をこえ、近世から現代にかけての刊本を中心とする、わが国屈指の孝経コレクションである。序文2編のうち、一つは孝経学研究家として著名な林秀一博士の撰になり、いま一つは編者自ら書かれたものである。

田結荘金治氏が、はじめて孝経の素読を受けたのは父左近翁からであった。テキストにした太宰春台訓点大字古文孝経は、氏の叔父も、また叔母も用いたもので、幼い筆の記名があるという。祖父はすなわち田結荘千里先生、儒学はもとより、画家、砲術家としてもきこえ、書は一家をなし、『古文孝経心解』はじめ、『読墨痕』『孫子心解』など多くの著作をのこした人である。泊園書院の藤沢東■【ガイ】先生とはことに親しく、明治29年、82才をもって歿したのであるが、その墓碣銘を撰したのは、藤沢南岳先生であった。もと但馬の人、大阪に出て田結荘(本姓)に復し、郷里の名勝にちなんで玄武洞とも号した。令孫金治氏が、孝経に心ひかれてその蒐集を始めるようになり、左近翁の25回忌辰に当たって目録を刊行されたのも、けっしてゆえなしとしない。奇縁とすべきは、時移ったいま、田結荘氏旧蔵書と藤沢氏旧蔵書が、玄武洞文庫、泊園文庫として学界貴重のコレクションとなり、共に本学図書館に収蔵されていることであろう。

「身体髪膚これを父母に受く、敢て毀傷せざるは孝の始なり」とは、いまさらいうまでもなく、孝経開巻の章にみえる一節であるが、この古典は、先秦のころ曽子(そうし)門流の手になったものといわれる。秦火の後、古文・今文二種のテキストがあり、古文は22章、今文は18章からなる。いずれも2,000字にみたない書であるが、五経につぐ儒教の中心経典として尊重され、多くの注釈書、研究書を生みながら伝流した。『漢書芸文志』以後、各時代の図書目録を見ても、その概略をうかがうことができる。孔安国(コウアンコク)(漢)の伝、鄭玄(ジョウゲン)(漢)の注、劉■(リュウゲン)(隋)の述義、玄宗(ゲンソウ)(唐)の御注、元行冲(ゲンコウチュウ)(唐)の疏、■■(ケイヘイ)(宋)の正義、司馬光(シバコウ)(宋)の指解、朱子(シュシ)(宋)の刊誤、董鼎(トウテイ)(元)の大義、江元祚(コウゲンソ)(明)の大全、阮元(ゲンゲン)(清)の校勘記等をはじめ、枚挙にいとまがない。さらに、今文・古文派の論争、性理学の立場からする新解釈、孝勘学の方法を駆使した原典批判、輯佚などと仔細にみれば、あたかも長大河に臨むごとくである。

一方、わが国への孝経の伝来については、林博士は「日本孝経年譜」において、推古天皇12年(604年)の17条憲法に、孝経にもとづく語句のあることを指摘して、伝来遠きにあるを知るべし、といい、次いで大宝律令の学令・考課令をあげて、孝経が論語とともに、当時学生の必読書であった、と初期の受容形態を明らかにしておられる。孔伝、鄭注、御注はもとより、皇侃(コウガン)(南北朝)、孔頴達(クエイタツ)(唐)などから、孝経に名をかりた雑書に至るまで、多くの孝経文献が舶載されたのである。藤原佐世の『日本国見在書目録』、藤原通憲の『通憲入道蔵書目録』、藤原頼長の『台記』等をみれば、それは瞭然とする。今佚して伝わらないが、藤原佐世は自ら『古今集註孝経』9巻を著し、邦人撰述注釈書のはじめともなったのである。

かくして孝経は、極めて徐々にではあるが、大学、国学、明経家を中心に知識層の中に滲透していった。それが広く国民道徳の基本、初学幼童の教科書、さらに孝経学研究の対象として全国的な普及をみるに至ったのは、江戸時代である。もちろん、それは近世学問の興隆と相呼応するものであったが、一面においてそのことを可能にし、支えたのは出版書肆の出現とそのめざましい活動であった。

孝経がはじめて印刷されたのは、文禄2年(1593年)の勅版古文孝経で、刊本孝経の時代はここから始まる。しかし、この勅版古文孝経は、当時の記録に見えるのみで今佚して伝わらない。ついで慶長4年、再び勅版古文孝経が印行され、これが現存最古の刊本として世に数本つたわる。同じく7年、舟橋秀賢跋の古文孝経(孔伝)の刊行があり、以来いくつかの古活字版孝経が出ることになる。いわゆる古活字版と称される本は、周知のように、慶長から寛永期が全盛で、それを過ぎると急速に衰え、整版一色に移行していく。整版は活字版に比べて印刷可能部数が大きいこと、訓点本等の必要から、整版の方が遙かにきめ細い彫刻が可能であったことが、その理由と思われる。いずれにしても、この時期が出版書肆の勃興期であり、寛文、延宝期を経て出版界は上方から江戸へ拡がり、やがて地方に及んでいった。こうして出版の主流は書肆が占めることとなり、夥しい本が刊行されたのである。

昭和9年、林博士は「日本孝経刊行目録」を『書誌学』第3巻1、2号に亘って掲載された。それは、前記「日本孝経年譜」と相まって、近世孝経刊本の全ぼうを明らかにせんとした最初の試みであった。各図書館蔵書をはじめ、個人蒐集家の蔵書をもつぶさに調査編さんされた総合目録である。大阪の石川留吉氏、本学名誉教授故石浜純太郎博士ほか数氏の蔵書が含まれている。玄武洞田結荘金治氏の集書が収録されているのは、いうまでもない。収録書はおよそ260部(玄武洞文庫本95部)である。もっとも、これには刊年の推知しうるもののみが載録されているのであるが、諸本を古文、今文、古今折衷に大別し、さらに古文は単経本と経注本(孔伝、指解、刊誤、大義、外伝、其の他)に、今文は単経本、経注本(鄭注、御注、呉注、其の他)及び経注疏本に細別し、各々の系統を標記してあり、参考に便である。

その後昭和53年になって「江戸時代成立刊行孝経簡明目録」(斯道文庫論集 第14集)の編さんがあり、林博士の目録をさらに前進せしめた。編者は、林博士と同じ孝経学研究家として著名な阿部隆一博士と大沼晴暉氏である。刊本の部319部、それぞれの後印本、修補本等約310種を数える詳細な総合目録である。(玄武洞文庫本は、およそ330部)

以上の目録から、われわれは近世出版にかかる孝経刊本のほぼ全ぼうを知ることができる。版種の極めて多いこと、夥しい注釈書の刊行されている点で、和漢書中孝経の右に出る書はないであろうといわれるのも、むべなるかなである。それにつけても、すぐれたコレクションが学問研究にとっていかに不可欠であるかが、手にとるようにわかるのである。

田結荘氏の前掲目録は、年代からいって丁度両目録の中間にある。95部からに大きな成長を遂げているのは、前記石川留吉氏のコレクションを譲り受け、以後も捜羅に努められたことによる。本学図書館に収蔵されたときは、およそ750部、900冊に上る充実したものとなった。うち近世孝経刊本からみれば、その全部ではないにしても、初印本、後印本のいずれかの種類を殆んどみたしており、玄武洞文庫にしかみられない稀覯書もまれではない。特筆に値する文庫というべきである。

林羅山はじめ、山崎闇斎、中江藤樹、熊沢蕃山、貝原益軒、太宰春台、片山兼山、山本北山、岡田宜生、木村蒹葭堂、屋代弘賢等の訓点本、注釈書、校訂本などすべて揃っている。一例すれば、太宰春台の孝経孔伝(享保17年刊)は、長崎をへて中国にもたらされ、彼地に孔伝は殆んど1,000年の間の亡佚書であったところから学界に大きな衝動を与え、やがて『知不足斎叢書』第1集に翻刻されて、再び日本に帰ってきたという因縁があり、のちの太宰本はじめ孝経孔伝流行の端緒となり、また、河村益根、岡田宜生などの孝経鄭注の輯佚刊行の導火線ともなった本である。そういった諸本を、このコレクションはみな含んでいる。

最後に、文庫中の一、二をとり紹介してみたい。

(1)孝経(八分孝経)宝永3年9月中村氏詩林堂刊 覆明崇禎迎紫斎刊本 3冊

この書は、孝経学史上極めて重要な位置をしめる御注孝経のうち、いわゆる天宝重注本と称するものである。唐開元7年(719年)3月、当時学界論争の的であった孝経鄭注(今文系)と孝経孔伝(古文系)の是非を質すため、玄宗は諸儒に詔して両派から討論せしめた。しかし、遂に決着をみるに至らなかったので、自ら注釈1巻を作って天下に頒ち両派の争いを収めようとした。これが開元始注本である。その後天宝2年になって、これを改訂し再び天下に頒った。これを天宝重注本と称する。そして天宝4年、玄宗は八分の書体をもって親書し、石に刻して大学に建てさしたのである。有名な石台孝経がこれで今も西安碑林に存している。のち明代になって郭元■(カクゲンキュウ)は、一つには八分書法の訛を弁し、一つには孝道の意を広めんため、版をおこすに至った。すなわち明版八分孝経であるが、所掲本は宝永3年、書肆中村詩林堂によって覆刻されたものである。玄武洞文庫にはこの後印本も蔵しているが、実はこの石台孝経の拓本そのものも蔵している。巾1.27メートル、長さ3.38メートルの堂々たる4軸で、文庫中の偉観である。

(2)古文孝経 古活字本二種

田結荘氏の目録には載せていないから、編さん以後に入手されたものと思われる。一本は慶長中刊本で、他の一本は元和刊本である。ともに伝本極めて少なく、前者は神宮文庫他数本が知られ、後者は京都大学に一本あるのみである。

(3)唐賀監草書孝経帖 明治17年跋刊 木村嘉平(四代)刻 一帖

賀知章(ガチショウ)の草書孝経といえば、天下に知られた名品であるが、所掲本は、明治12年頃、三条実美の首唱により、堀皆春がこれを模写し、川田剛の跋を添え、四代木村嘉平の刻になった稀代の版本である。堀皆春は大阪の書家・篆刻家呉北渚に学んだ人、木村嘉平は筆意彫りの名人といわれた人である。その合作になるこの書は、整版本の極致を示している。

                                   森川 彰(梅花女子大学教授)
昭和60年4月28日発行 関西大学図書館報『籍苑』(第20号)より転載
(所属は執筆当時のもの)
 

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