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五弓雪窓文庫

 

本学図書館では、幕末の史学者だった五弓雪窓【ごきゅう・せっそう】の遺書、手稿本90余種ならびに旧蔵書30余種(総計515冊)を「五弓雪窓文庫」として別置し、特別書庫に保管している。

五弓雪窓、名は久文、字は士憲、通称豊太郎、雪窓はその号である。備後の人。史学に名があり、一般には『事実文編』の編者として知られている。が、なお『三備史略』『文恭公実録』『白川楽翁公行実』その他多くの著述を残した。文政6年に生れて明治19年に歿す。享年64。昭和3年正五位を追贈さる。

五弓雪窓の遺書は、雪窓歿後、嗣子の五弓友太郎、甥の五弓安二郎両氏の手によって年久しく大切に護持されて来たが、雪窓外孫大橋香陵女史のご尽力によって、広島県府中市の五弓武男氏(雪窓嫡孫)から、その一切をあげて、昭和29年から昭和32年頃にかけ、数次に分けて本学に寄贈せられ、ここに本学図書館に一つの特色を加えることになった。

その後本学では、文学部の壺井義正先生が整理の労をとられて、壺井先生の手になる「五弓雪窓選述稿本目」が完成し、それは「関西大学々報」(昭和35年9月・第343号)に発表された。

以下に五弓雪窓文庫の主要著述について紹介して行くことにするが、その前に、雪窓の学問修業の経歴を一通り述べておくことにする。

雪窓の学問歴は、なかなか複雑である。幼時に備中笠岡の小寺清先について国学を学び、天保10年17歳にして始めて大坂に遊学、後藤松陰の門に入り、やがて広瀬旭荘の塾に転じ、さらに篠崎小竹の門人になった。天保12年19歳の正月江戸に下り、津藩邸の斎藤拙堂に従う。拙堂の伊勢帰国後は、幕府の昌平坂学問所教授依田匠里に学び、弘化3年24歳の秋一旦備後に帰り、その途すがら津藩に旧師拙堂、大坂に小竹を訪ねて、『事実文編』の手稿を示した。両先生はともに序文を作って、その苦心成業の美を称揚した。小竹の序文を見ると、雪窓がその師を取りかえたことの多いのは、まるで旅籠屋を取りかえるようだと云い、しかし雪窓が家塾を渡り歩いたのは、ひろく諸家の蔵書に目を通すがためで、『事実文編』のような有用な大部の書冊を編成すべく、あちらこちらへ転塾したのであろうといっている。当時は今日のように図書館の設備というものが無かったのであるから、多くの書物を渉猟するには、雪窓のように塾をかえて歩かねばならなかったのである。

その年の秋再び江戸に下り、学問所の祭酒林テイ宇の門に入り、ほどなくその弟梧南の塾に転じ、梧南の嗣子鶯渓と共に学業に精励した。昌平坂学問所の蔵書を見る便宜があったので、『文恭公実録』『楽翁公行実』などの著書が完成出来たのであった。

その後、下総国飯沼弘経寺の梅癡上人に招かれて、同寺の学寮に教鞭をとったが、安政3年病を得て帰国。文久3年『事実文編』編纂の功によって、福山藩主阿部侯に召され、福山藩校誠之館の教授となり、士籍に列した。

明治7年、太政官修史局御用掛を命ぜられて東京に移る。居ること2年。母の病によって帰省の途、病に罹り、そのまま仕官の念を絶ち、郷里府中に家塾晩香館を開いて子弟の教育にあたった。

「五弓雪窓文庫」に蔵する雪窓手稿本は、右に見て来た学問修業中の著述、郷里に藩校教授として、また家塾晩香館主として活躍した時期の全著述が一切収蔵されている。五弓雪窓その人の学問を知る上で、また雪窓とその諸友との交遊を知る上で、きわめて貴重な資料の数々である。その主要著述について次ぎに述べよう。

『事実文編』は近世人物の伝記材料を集成した大著述で、博捜つとめたりというべきである。明治44年に国書刊行会から翻刻が出て広く利用されるに至り、雪窓の名はこの編著によって人々に記憶さるることになった。ただし国書刊行会本は正篇次篇の102冊までを収めただけで、後篇と雑篇の15冊分はまだ活字になっていない。既刊分に比してその量はいうに足りないけれども、中には近世人物の逸事異聞の知り得らるるもの少なからず、これからも大いに利用されることの望ましい資料である。また、『事実文編目次』と題する稿本二種は、一は所載資料の類別順の配列から成り、一は所収資料の編年順配列になっていて、いずれも刊本の体裁とは内容の序次が異なる。おそらく編集初期の形態を示すものであるが、『事実文編』の成立を考える上では大いに参考に資すべきである。

雪窓の著述を見て行くと、雪窓の得意にしたところは、むしろ編纂物にあり、自分自身の著述よりも、編纂物に自己の才能をより発揮したことが看取される。『事実文編』がその代表的なものであるが、十一代将軍徳川家斉の伝記資料を集成した『文恭公実録』、松平定信の行実を集成した『楽翁公行実』、この2つも、雪窓がもっとも力を注いだ主著と見るべきものである。小著であるが『拙堂先生小伝』『星巌梁川先生年譜』も、斎藤拙堂と梁川星巌の伝記資料集成の先駆をなす著述となった。その外にも、菅原道真に関する詩文を集録した『景賢録』、近世の漢詩集から詠史詩を集め、それを主題の編年順に配した『蜻州詩史』、同じく近世の詩文集から送序ばかりを摘んで集成した『求友編』など、いずれもその取材と着想に雪窓の特色が遺憾なく発揮されている。

雪窓は故郷備後の歴史と地理についても深い関心を寄せていた。これは史家本来の面目として当然のことだったといわねばならない。そうした研究の所産として『三備史略』『福山管内地理略』『備中名勝考弁疑』などが残されている。『三備史略』は、古今の史書から吉備国に関連する記事を集大成したものである。雪窓文庫にはその手稿本は存しないが、明治27年に郷里府中で出版された本を蔵する。『福山管内地理略』は雪窓の自筆稿本を蔵する。雪窓は晩年に中風を患って把筆の自由を失い、文稿類は門弟たちに筆記させたものが多い。この『福山管内地理略』は雪窓の元気で油の乗った時期に出来た稿本で、大字で活達に書いている。

雪窓は自己の見聞するところ、思惟するところを、取材に古今雅俗のわかちなく、歴史家らしい広範な関心をもって、興のおもむくままに文章にした。それが厖大な量をなし、『晩香館文稿』37冊、『蕉陰茗話』『村居独語』『坐待日録』などの随筆22冊に収めて残されている。雪窓の筆まめだった一事には脱帽せざるを得ない。こうして出来上がった著述を、諸友に示して批評を乞うのも、また雪窓のつねとした所であるが、そのため各種の稿本類には、友人諸家の自筆になる朱批の加わったものが大半をしめている。雪窓は文雅の交遊がひろく、そうした諸友には中村敬宇、坂谷朗廬、川田甕江、三嶋中洲、藤沢南岳、菊池三渓、小野湖山、依田学海、片山冲堂等の名家が多い。

雪窓の日記『晩香館日誌』は全部で94冊あり、40歳の元治元年から歿時の明治19年まで、約20年間の全部を存する。この期間は数年の東京生活を除いて郷里に居た時期で、晩年の日常生活が克明に写されている。また、諸友の来翰【ライカン】を全部日記に再録しているので、その点でも珍重すべきものを含んでいる。雪窓の「文稿」「随筆」「日記」は、今後丁寧に見直されることで、それぞれの研究分野に意外な好資料を提供するだろう。各方面で大いに利用されることが期待される。

五弓雪窓文庫には、雪窓旧蔵書の一部が存する。その中に、菅茶山の『冬の日影』1冊のあることを特筆しておきたい。『冬の日影』は、雪窓には同国の先輩である茶山が、優雅な国文で礼楽の道を説いた好著述で、その内容は玩味すべきものが多い。昭和初年『日本儒林叢書』に翻刻されて一部の人の知るところとなったが、五弓本『冬の日影』は、翻刻の底本に用いられた国会図書館本に比して、やや早い時期に成った初稿本である。この書は写本の伝存するものがきわめて稀れであるから、五弓本はそうした意味でも大いに珍重に値するのである。

                                     肥田 晧三(文学部教授)
昭和60年4月28日発行 関西大学図書館報『籍苑』(第20号)より転載
(所属は執筆当時のもの)
 

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